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高松高等裁判所 昭和46年(ネ)289号 判決 1972年6月28日

控訴人

安田火災海上保険株式会社

代理人

籠池宗平

被控訴人

瀬尾晴美

右代理人

佐々木一珍

主文

原判決中控訴人と被控訴人とに関する部分をつぎのとおり変更する。

控訴人は、被控訴人に対し、金一二八万二三三六円およびこれに対する昭和四四年二月二日から右完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

被控訴人のその余の請求を棄却する。

訴訟費用は、第一、二審を通じ、これを六分し、その五を控訴人の負担とし、その余を被控訴人の負担とする。

この判決は、主文第二項に限り、仮りに執行することができる。

事実《省略》

理由

一当裁判所も、被控訴人は、控訴人に対し、自賠法一六条一項に基づき、本件事故による損害の支払請求権を有していると判断するものであつて、その理由は、左に付加する外は、原判決理由第一の一ないし四に記載のとおりであるから、これを引用する。

これを要するに、本件事故の被害者である亡秀仁は、自賠法三条にいわゆる他人に該り、被控訴人および亡秀仁とも本件自動車の運行供用者ということはできないのであつて、被控訴人は控訴人に対し自賠法一六条一項による賠償の支払請求権があるものといわなければならない。

なお、控訴人は、当審でも、円満な夫婦親子の間においては、損害賠償請求権が行使されることはなく、本件では、本件行使の予想される損害賠償請求権もなければ、現実に支払いの予想される損害もないなど、種々の理由を述べて、本件については被控訴人に自賠法一六条一項の請求権はないと主張する。しかし、現実に同居して共同生活を営んでいる夫婦、親子であつて、互いに扶養し、扶養されている関係にあるものであつても、法律上その人格は別個独立で、各自独立の権利主体となり得るし、その個有の財産も認められているのであるから、夫が故意過失により妻の生命、身体、財産を侵害し、また同じく父母が子の生命、身体、財産を侵害した場合には、妻又は夫又は父母に対し、右侵害による損害賠償請求権を取得するものといわなければならないところ、さきに認定したとおり、本件においては、亡秀仁の父親である一茂が自己の保有する自動車をその運行の用に供している際に秀仁の生命を侵害したのであるから、秀仁は父親である一茂に対し自賠法三条による損害賠償請求権を取得したものというべきであつて、同人の権利義務を相続した被控訴人も、夫である右一茂に対し右損害賠償請求権を取得したものというべきであるし、また、右損害賠償請求権を現実に行使することは法律上何等さしつかえないものといわなければならない。もつとも、円満な夫婦親子間においては、過失によつて一方が他方に損害を及ぼした場合に、被害者から損害賠償の訴求をしないのが通例であり、また、一般的に夫婦親子の情宜等からいつて右損害賠償請求権を行使しない方が望ましい場合が多いといえようが、このことから直ちに右損害賠償請求権の行使が許されないものとは解し難い。けだし、前述のように、実体法上現実に損害賠償請求権が発生した以上これを行使してその実現を望むこと自体は何等正義に反しないし、また、右権利の実現をはかるための現実的履行の強制を禁止ないし制限する法律上の規定は何等ないからである。しかして以上のことは、被害者の受けた損害が財産上の損害であると精神的損害であるとによつてこれを区別する合理的理由はないから、被害者は得べかりし利益の喪失による損害の賠償も精神的苦痛に対する慰藉料の請求もできると解すべきである。

二つぎに、本件事故によつて亡秀仁の蒙つた損害(逸失利益、慰藉料)等に関する当裁判所の認定判断も、亡秀仁の慰藉料につき、「後記認定の被害者側の過失を斟酌しても、金五〇万円を下らないものである」と付加訂正する外は、原判決理由第一の五の(一)(二)に記載のとおりであるから、これを引用する。

三つぎに、控訴人の過失相殺の主張(控訴人は、本件事故は、直接の加害者である原審相被告三宅拓美の過失と共に、前記一茂が亡秀仁に対する監督を怠つたという過失にも起因するから、右過失は本件損害賠償額を定めるについて斟酌さるべきであると主張する)について判断する。

民法七二二条に定める被害者の過失とは、単に被害者本人の過失のみでなく、ひろく被害者側の過失をも包含するものと解すべく、右にいわゆる被害者の過失とは、被害者本人が幼児である場合には、右幼児と身分上ないし生活関係上一体をなすものとみられる関係にあるものの過失をいうべきものと解するのが相当であり(最高裁昭四二・六・二七判決、民集二一―六―一、五〇七参照)、また、右被害者側の過失は、自賠法三条による自動車保有者(運行供用者)の賠償責任額や同法一六条の規定による保険会社の損害賠償の支払責任額を定めるについても当然に酌斟さるべきである。ところで、本件のように、自動車の保有者が同時に被害者の監護者である場合には、自賠法一六条一項の規定による被害者請求は同法三条による保有者責任が基礎になつているところから、その関係においては、自動車保有者は加害者の立場に立つとの議論が生ずる(原判決理由六参照)。しかしながら、自賠法一六条一項の規定による保険会社の支払責任は、同法三条による自動車保有者の賠償責任を前提とするものであるが、それはあくまで、自動車の運行によつて生じた賠償責任を保険するに止まるものであるから、過失相殺における自動車保有者の立場も、具体的に、自動車の運行という観点から考察されなければならないと解すべきところ、自賠法三条による保有者の賠償責任は、運転者が別に存する場合には、自己の過失の有無とは関係なしに負うべきものであつて、運転者が自動車を運転中、過失により人身事故を惹起したため、右自動車の保有者が自賠法三条により賠償責任を負うべき場合に、右事故の発生につき、被害者である幼児と生活上ないし身分上一体をなすとみられる関係にある自動車保有者自身に、被害者に対する監護責任を怠つた過失があれば、右過失は、自動車を運行したことによる責任を論ずる関係では、いわゆる加害者側の過失の範疇には入らないものというべきである。もともと、過失相殺は、加害者と被害者側の双方に過失がある場合に、公平の理念に照らし、被害者本人にその損害の一部を負担させるのが相当であるとして、賠償額を定めるにつき右被害者の過失を斟酌しようとするものであるから、自賠法三条により自動車保有者として賠償責任を負う者にも、被害者である幼児に対する監護責任を怠つた過失がある場合には、それを被害者側の過失として、被害者本人に過失があつた場合と同様に、賠償額を定めるにつき右過失を斟酌し得るとするのが、過失相殺を認めた前記公平の理念に合致するものといわなければならない。してみると、自動車保有者の被害者に対する監護責任を怠つた過失は、自賠法一六条一項による請求についても、当然に斟酌し得べきものであると解するのが相当である。

そこでつぎに、本件において、原審原告一茂に亡秀仁に対する監護責任を怠つた過失があるか否かについて判断する。<証拠>ならびに弁論の全趣旨を綜合すると、つぎの如き事実を認めることができる。すなわち、(1)本件事故前、原審原告一茂は、同人方西側の空地で使用人である原審被告三宅招美外一名の者と共に薪割の作業をしながら、当時生後二年三カ月の長男亡秀仁を付近で遊ばせていたこと、(2)その後右一茂は、三宅に対し右薪割作業用の道具を買つてくるように命じたところ、三宅は右宅地の北東隅に駐車してあつた一茂所有の本件自動車に乗つて買物に出かけようとしたこと、(3)そして右三宅は、右薪割をしていたところから本件自動車の方に歩いて行く途中、右自動車の駐車場所から西方約八メートルの地点で、玩具の自動車を持ち、しやがんで遊んでいた右秀仁をみかけ、同人に声をかけたが、同人は格別の反応も示さなかつたので、そのまま本件自動車のところに行き、これを運転して出発すべく、一旦後退させた後前進させて右側道路に出ようとしたこと、(4)ところで、かかる場合には、自動車を運転する三宅としては、右出発前に近くの空地で秀仁が遊んでおり、かつ、同人は、当時わずか二年三カ月の幼児であつて、不測の行動に出る虞れがあつたから、特に同人の動静に注意を払い、同人の安全を確認しつつ本件自動車を運転すべき注意義務があつたのに、これを怠り、おりから本件自動車の前部付近にまできていた右秀仁には全く気付かず漫然と右自動車を運転して右側道路に出ようとしたため、本件事故を惹起するに至つたこと、(5)一方、一茂も、前述のとおり、本件事故前、本件事故現場付近の空地で秀仁を遊ばせていた際に、前記三宅に買物に行くよう命じたものであるところ、当時右空地の東北隅には自己所有の本件自動車が駐車させてあり、かつ、右三宅は平素から本件自動車を運転していた上、右三宅が買物に行くべく本件自動車の方へ歩いていくの認めていたのであるから、同人が本件自動車に乗つて買物に出かけることを予想し、右秀仁の行動に注意して同人を本件自動車に近づけないようにするなど、本件自動車に対する同人の安全をはかるべき注意義務があつたのに、これを怠り、秀仁が一人で遊ぶのに任かせ、同人の動静に注意しなかつたため、これが一因となつて本件事故を惹起するに至つたこと、以上の如き事実が認められ、右認定に反する原審原告瀬尾一茂本人尋問の結果はたやすく信用できず、他に右認定を左右するに足る証拠はない。そうだとすれば、本件事故の発生については、前記三宅の過失と一茂の亡秀仁に対する監護責任を怠つた過失とがあつたものというべく、その過失割合は、前記認定の事実に照らし、前者が七、後者が三と認めるのが相当である。

してみれば、亡秀仁は、本件事故によつて喪失した得べかりし利益(逸失利益)金二九四万九五三四円のうち、その三割を減じた金二〇六万四六七三円の損害賠償請求権を取得したものというべきである。

四つぎに、亡秀仁の父母である一茂および被控訴人の両名が亡秀仁の権利義務を平等の割合で相続したことは当事者間に争いがないから、被控訴人は、右亡秀仁の蒙つた損害(逸失利益、慰藉料)の合計額金二五六万四六七三円の二分の一にあたる金一二八万二三三六円の損害賠償請求権を相続により取得したものというべきである。

控訴人は、被控訴人は本件自動車の運行供用者であるから、亡秀仁の損害賠償請求権を相続したことにより、その請求権と右秀仁に対する運行供用者責任に基づく被控訴人の損害賠償義務とが同一人に帰する結果、被控訴人の右相続による損害賠償請求権は混同により消滅したと主張するが、前記認定のとおり、被控訴人は、本件自動車の運行供用者ではないから、控訴人主張のような混同は生じないものというべく、右控訴人の主張は失当である。

五つぎに、控訴人は、被控訴人の自賠法一六条一項に基づく本件損害賠償の支払請求権は時効により消滅したと主張しているが、当裁判所も被控訴人の右損害賠償請求権は時効によつて消滅していないと判断するものであつて、その理由は、つぎに付加する外、原判決理由第一の七に記載のとおりであるから、これを引用する。

被控訴人の本訴請求は、自賠法一六条一項に基づき、本件自動車につき自賠責保険を締結した保険会社である控訴人に対し、右保険金額の限度において、本件事故による損害賠償額の支払を求めるものであるから、右損害の内訳が亡秀仁自身の蒙つた損害であると、被控訴人自身の蒙つた損害(慰藉料)であるとを問わず、右一六条一項の規定に基づく請求であることに変りはなく、被控訴人が本件訟訴で右損害の内訳を変更した前後を通じ、訴訟物は彼此同一であると解するのが相当であるところ、本件訴訟は、本件事故後二年以内の昭和四四年一月二三日に提起されたことは記録上明らかであるから、結局右損害賠償請求権の消滅時効は未だ完成していないものというべきである。

六そうだとすれば、被控訴人の本訴請求のうち、金一二八万二三三六円およびこれに対する本件訴状送達の翌日であることが記録上明らかな昭和四四年二月二日から右完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を求める限度で正当であるが、その余は失当である。

よつて、右と異なる原判決主文第一項は不当であるからこれを変更して、被控訴人の本訴請求を右の限度で認容し、その余は失当であるから棄却し、訴訟費用につき民訴法九六条九二条を、仮執行の宣言につき同法一九六条を適用して、主文のとおり判決する。

(加藤竜雄 後藤勇 小田原満知子)

《参考 原審判決理由》

第一被告会社に対する請求について。

一、保険契約の締結と事故の発生

被告会社に対する請求原因一・二項の事実は当事者間に争いがない。

二、原告ら及び秀仁の自賠法三条の「他人」性の有無

被告会社は、原告一茂は本件自動車を自己のために運行の用に供する保有者であり、また、原告清美も、夫婦親子一体としての生活共同体の中で本件自動車を共同利用してその運行利益を享受しているから、共同運行供用者であつて、いずれも自賠法三条の「他人」に該当せず、同法一六条一項の「被害者」にもあたらない旨主張する。

思うに、自賠法一六条一項の「被害者」とは、自動車の運行により身体を害された者本人、生命を害された者の損害賠償請求権を相続した者、民法七一一条による慰藉料請求権者、その他人身事故による損害の出捐者等をいい、自賠法三条の「他人」とは、生命又は身体を害された運行供用者及び運転者以外の者をいうのであつて、両者はその範囲を必ずしも同じくせず、また、原告らは、本件事故により秀仁が損害を蒙り、これを相続したとして、被告会社に対し保険金の支払いを求めているものである。従つて、右「他人」に該当するか否かは、取りも直さず、原告らについて判断されるべきものではなく、本件事故により死亡した秀仁について検討されなければならないものであり、これが肯定された場合、原告らが本件自動車の運行供用者であるとすれば、原告らも秀仁に対し損害賠償の義務を負うから、原告らがその主張のように秀仁の損害賠償請求権を相続しても、それは混同によつて消滅することになる。(このことは被告会社がその主張二項の(一)で主張するところである。)

そこで検討するに、自賠法三条の「他人」とは、前記のとおり自己のために自動車を運行の用に供する者及び当該自動車の運転者を除く、それ以外の者をいうと解するのが相当であり、運行供用者とは、自動車について、所有権その他使用権原を有し或いは事実上これを支配して自由に使用できる立場にあるいわゆる運行支配を有し且つその運行利益が帰属している者をいうと解せられるところ、原告晴美本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨によれば、秀仁は、昭和四〇年一二月八日原告ら間に生まれた幼児で、本件事故当時二年三か月であつたことが認められるところ、他に特段の事情がないかぎり、このような幼児が自動車の運行支配を有し且つその運行利益を独立して享受していたと解するのは相当でなく、本件においてこれを肯定するに足る特段の事情も窺えないから、秀仁に本件自動車の運行支配及び運行利益が帰属していたとは認められず、従つて、同人は右の「他人」にあたるというべきである(この点に関し、被告会社は、夫婦親子一体としての生活共同体を云為し、また、本件事故当時の本件自動車の運行が右共同体における家事行為に付随するものでその運行利益は秀仁にも帰属していた旨主張するが、本件自動車の運行によつて、秀仁の生活上になんらかの利便を生ずることは考えられないではないけれども、それは原告一茂の養育を受けていることによる同原告の有する運行支配及び運行利益の単なる反射的なものであつて、間接的なものである域を出るものとはみられず、前説示に照らし、秀仁が独立して直接に本件自動車の運行支配及び運行利益を有しているとする根拠とは到底なし難い。)。

ところで、原告一茂が本件自動車を所有し自己のために運行の用に供する保有者であることは、当事者間に争いがない。

そして、原告ら各本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨によれば、本件自動車は、普通貨物自動車で、原告一茂が自己の経営する鉄工業のためにこれを利用していたものであること、原告晴美は、右鉄工業には特に関与せず、独立して美容院を経営し、そのかたわら一般家事に従事していたものであることが認められ、本件全証拠によつても、原告晴美が本件自動車を自己のために運転利用することを常としていたような事情は窺えないところであつて、右事実によれば、本件自動車の運行支配及び運行利益はもつぱら原告一茂に帰属していたものといわざるをえず、原告晴美は、前記秀仁の場合と同様反射的間接的な利便を受けていたとしても、本件自動車の運行供用者であるということはできない。

三、原告一茂の自賠法三条に基づく責任(秀仁の損害賠償請求権の有無)

前記のとおり、原告一茂が本件自動車を所有し自己のために運行の用に供していることは、当事者間に争いがないところ、被告会社は、秀仁及び原告らが夫婦親子一体としての生活共同体を構成していたものであるから、その相互間においては、法律上、損害賠償請求権は発生しないか、少なくともこれを行使しえないものである旨主張する。

なるほど、夫婦親子で構成されている家族的生活共同体は、強固な人格的結合たるを旨として、常に平穏・安定が維持されるべきであるから、その内部で生ずる諸々の問題については、構成員間において、愛情と情誼を基調とする相互扶助の精神に則り、自治的に解決することが望ましく、「法律は家庭に入らず」の法諺どおり、みだりに財産法上の法的手段に訴えるべきではないし、これに外部から容喙を加えることも極力差控えなければならないであろう。

そして、現実に右のような生活共同体の中で加害行為が発生しその結果被害が生じた場合においても、共同体が円満に維持継続されているかぎり、その被害は共同体全体の財産的、身体的ないしは精神的負担として甘受し、たがいに許し合うのが通常で、被害者があえて加害者に損害賠償を訴求することはほとんど考えられないし、また、右の場合、加害者は被害者に対し親族としての協力扶助義務を負つているので(民法七三〇条、七五二条、七六〇条、八二〇条等)、その履行により加害行為によつて生じた財産的損失は直ちに填補される関係にあるから、被害者が加害者に対して損害賠償を請求することは無意味でありその実益を欠くということもできよう。

しかしながら、現行民法は、夫婦親子の間といえども、各人がそれぞれ独立の人格者として別個の権利義務の主体となりうるとする個人主義に立脚し、その間の財産関係についても、夫婦間では、原則的にそれぞれ特有財産を持ち、婚姻費用を分担し、家事債務について連帯責任を負い(民法七六〇条以下)、また、未成年の子の財産については親権者が包括的な管理権を有するけれども(同法八二四条)、親権者に恣意的な管理を許さないようかなり厳格な制約と義務を課して子の財産の保護を図る(同法八二五条)など、個別財産主義を建前としており、なお、親子夫婦間における訴権を禁止する制度は、現行法上存在しない。そして、夫婦親子間において損害賠償請求権を行使することが常に家族的生活共同体を分裂破壊するとは限らないし、前記のような協力扶助義務による損失の填補があらゆる場合に例外なく期待できるとも限らないのであつて、ただ、子が親に対し或いは妻が夫に対して損害賠償請求権を行使することについては、道徳的な抵抗や社会的非難を受け、進んで、権利の濫用と目されることになる場合が多いであろうと思われるだけである。

右の観点から考えると、家族的生活共同体の内部で加害行為が発生しその結果損害が生じたときでも、法律上は、被害者が加害者に対し損害賠償請求権を有するに至ることは当然というべきであつて、権利者がこれを行使する以上その行使を一般的に拒否する理由は見出し難く(前記のとおり、実際上は行使を差控えるのが通常であるということは、その理由にならない。)、ただ、右行使が、生活共同体の構成員が負うとみられるところの共同体における生活関係を円満に保持していく義務に不当に反してこれを破壊するものであるとき或いは前記のような協力扶助義務による損失填補を現実具体的に受けうる関係にあるのにあえてしたものであるときなど、事情によつて権利濫用の問題が生ずるだけであるというべきである。

しかして、保険会社に対し自賠法一六条一項に基づき損害賠償額の支払いを求める前提として、被害者側から保有者たる生活共同体の構成員に対し同法三条による損害賠償請求権を行使することは、共同体を分裂破壊させるおそれは全くないから、共同体保持の目的に少しも反しないし、また、事故の結果が死亡という最悪の事態を招いている場合には、死亡者自身の損害に関する限り、前記のような協力扶助義務による損失の填補は実質上なされえないものというべきであるから、右行使にはなんら権利濫用の廉は認め難い。そして、このことは、事故の直接の加害者が保有者自身でなくその属する共同体の外部の者である場合には、一層明らかであるといわなければならない。

かかる見地からすれば、本件事故は、後記認定のとおり、被告三宅の過失により惹起されたもので、不法行為の成立は明らかであるから、原告一茂は、本件自動車の保有者として自賠法三条に基づき本件事故により秀仁に生じた損害を賠償すべき責任があり、その賠償請求権の行使も当然許容されるというべきである。

なお、原告一茂が賠償すべき損害の範囲については、もし同原告自身が直接の加害者であるときは、一応問題の存するところであるが、本件では、前記のとおり、直接の加害行為は被告三宅によつてなされたもので、本来同人が賠償義務を負うべき損害について、原告一茂が自賠法三条により被告三宅と不真正連帯の関係で賠償義務を負つているものであることにかんがみれば、一般の場合と異なつた考慮を特にはらう必要はないものというべきである。

四、原告らの自賠法一六条一項による直接請求の可否

被告会社は、本件事故による損害賠償責任が近親者間のそれである特殊性を重視して、原告らに自賠責保険金の請求を許すことは、自賠法の立法趣旨にもとり、自賠責保険制度の目的に背馳する旨、縷縷主張するが、当裁判所は右主張を採用しないものであつて、その理由とするところはすでに前項で説示したことのほか、次のとおりである。

たしかに、自賠法の適用をみるのは、加害と被害者とが全くの他人であるような社会的生活関係についてであることが通例であり、運行供用者責任に基づく被害者の保護救済を目的とする自賠責保険において、運行供用者の近親者である被害者を、純粋の他人の場合と同一に扱うことには若干の躊躇を禁じえないところがあろう。

しかしながら、かかる近親者の被害が自賠責保険の保護の対象外であるとは当然にはいえず、これをその対象から除外するためには、特別の規定が必要であるというべきところ、自賠法一六条によれば、同条一項の損害賠償額の支払請求(直接請求)は、同法三条による保有者の責任が発生したときに、被害者これに事故により死亡した者の相続人が否まれることは前記のとおりである。)に対して認められるとされ、同条二項の規定によつて保険会社が義務を免れることがあるほか、特にこれを制限する規定は存しない。

そして、自賠法の立法趣旨は、同法一条、三条、五条、一一条等の規定から明らかなように、自動車の運行供用者に対し自賠責保険契約の締結を強制してその自動車の運行によつて他人の生命身体を害し、運行供用者が被害者に対して損害賠償の責任を負うべき場合に、運行供用者の損害を保険会社が填補する道を講ずることによつて、運行供用者の資力を確保し、ひいて被害者に対する損害賠償を確保し、もつて被害者の保護を図ろうとするものであり、さらにこれを進めて、同法一六条によつて右のように運行供用者の被害者に対する損害賠償義務が発生したときには、被害者から直接保険会社に対し保険金額の限度において損害賠償額の支払いを請求することを認めて、被害者に迅速簡易確実な満足を得さしめることとしているのである。

従つて、運行供用者の近親者からの損害賠償請求権に基づく保険金請求の場合においても、事案に応じて、その賠償請求権が近親者間に存する協力扶助義務の中に実質上埋没ないし吸収されているとか、その行使が権利の濫用にあたるとみられればともかく、そうでなければ、これを否定することはできないというほかはない。しかして、本件において、右権利濫用等にあたる事情がないことは、前記説示のとおりである。

もつとも、本件のような損害賠償請求権が、自賠責保険の問題と離れて現実に行使されることはないと思われるけれども、前記のとおり、かかる賠償請求権に基づく保険金請求を否定する規定はないし、これを認めても決して被害者側に不当な利益を得させるものとも考えられないから、その請求の前提として、いわば抽象的に右賠償請求権を行使し、保険金請求をすることも許されるというべきである。

また、被告会社主張のように、夫婦親子一体としての生活共同体の内部における自動車事故被害については、保有者側内部の問題として処理されることが、自賠法制定当初から予定されていたとしても、立法当初の事情が法の解釈に絶対的な影響を及ぼすものとみることは妥当でないのみならず、右のような処理に委ねて自賠責保険の保護の対象から除外することは、運行供用者ないしは保有者自身の加害行為により生活共同体の構成員に被害を与えたような場合ならともかく、本件のように、直接の加害者が共同体の外部の者である場合には到底首肯し難いことであるし(本件のような事例についてまで右のような予定がなされていたとは思われない。)、また、本件の場合、単純に共同体内部での事故だとみること自体が相当でない。

そして、被告会社は、夫婦親子間の事故が、その発生の危険性が高いのにかかわらず、自賠責保険の保険料率算定にあたつて考慮されていないことをもつて、これらの被害者の保険金請求を否定する根拠とするが、右のような考慮がなされていないとしても、それは、自賠法一六条一項の解釈を誤つた結果であると思われるし、そもそも、本件事故は、危険率が高いという生活共同体の構成員の共同利用の場面で生じたものではなく、一般歩行者との間で惹起されたものと大差のないものであるから、右根拠には左袒できない。

さらに、被告会社及び国において、長期間にわたり、夫婦親子間での自動車事故による損害を自賠責保険上の保険損害として取扱わない運用であり、それが商慣習ともなつているというが、証人小野寺芳男の証言によれば、保険会社が従来右のような運用をしてきていることは認められるけれども、それは保険会社側の一方的な法解釈によるものであつて、一の見解にすぎず、本件のような場合にまで妥当するものとはいえないし、右の慣習的なものが存するとしても、いわば保険会社内部での事務処理慣行であつて客観性が認め難いうえ、保険契約者においてこれに従う意思があるとは思えないので、これをもつて、被告会社に対する本訴請求を否定する理由とすることはできない。

要するに、被告会社に対する本訴請求自体は、形式的には自賠法上否定される根拠がないし、実質的にみても、吾人の倫理観念に反するものではなく、被害者の保護を図らんとする前記自賠法の立法趣旨に合致するものというべきである。

五、損害

(一) 秀仁の逸失利益

<証拠>によれば、政府の自動車損害賠償保障事業においては、秀仁のような死亡当時二才の幼児の逸失利益を、被告会社に対する請求原因四項の(一)のとおりの計算関係で、二九四万九、五三四円と算定する取扱がなされていることが認められる。しかして、秀仁が生前その身体に格別の障害があつたとみられる事情は窺えないし、第一一回生命表によれば、二才の男子の平均余命は65.81年であること、労働省の「昭和四三年度賃金構造基本統計調査報告」第一巻第一表によれば、常用労働者一〇人以上九九人以下を雇用する事業所における高等学校卒業の男子労働者の収入は、一八才ないし一九才で平均月間現金給与額二万五、二〇〇円平均年間特別給与額一万五、七〇〇円、二〇才ないし二四才で平均月間現金給与額三万二、四〇〇円平均年間特別給与額六万一、四〇〇円であつて、以後順次上昇し六〇才をこえても右金額を下ることはないことがそれぞれ認められるので、これらをあわせ考えれば、秀仁についても、右計算関係が妥当し、同人の逸失利益の現価が右二九四万九、五三四円を下るものではないと推認できる。

ところで、被告会社は、原告らは秀仁の逸失利益の賠償請求権を取得するとともに同人の養育費の出費を免れるから、逸失利益額から養育費相当額を控除すべき旨主張する。しかし、いわゆる損益相殺により差引かれるべき利得は、被害者本人に生じたものでなければならないと解せられるところ、本件の場合、損害賠償請求権は被害者である秀仁本人について発生したものであり、原告らが養育費の支出を免れたとしても、その利得は秀仁本人に生じたものではないから、本件賠償額から控除すべきいわれはない。のみならず、幼児の逸失利益は予測が因難であつて、かなり控え目に認定することによりその蓋然性を確保しており、秀仁が前記認定額以上の利益を得る可能性は決して少なくないから、実質的公平の観点からしても、養育費を控除することは相当でないというべきである。従つて被告会社の前記主張は採用できない。

また、被告会社は、税金等及び稼働可能期間終了後平均余命年数までの間の生活費をも逸失収入から控除すべきである旨主張するが、右主張も、採用し難い。すなわち、まず税金等については、これを控除すべきか否か問題の存するところではあるが、かりに控除すべきとの見解に立つても、前記認定のとおり、秀仁の生活費を全稼働期間を通じて一律に収入額の二分の一とみて控除しているのであるから、その生活費の中に税金等も含まれていると考えて差支えない。そして、稼働可能期間後の生活費については、およそ逸失利益の算定にあたり生活費を控除するのは生活費が労働力再生産のための必要経費とみられるからであるが、右期間後はもはや逸失利益を考えないのであるから、必要経費たる生活費はありえず、これを控除することは失当であるといわなければならない。

なお、被告会社は、ホフマン式計算法により逸失利益の現価を算出するのは不合理である旨主張するので、その当否につき検討するに、たしかに同計算法自体にはその主張のような不合理を生ずる欠陥があるけれども、逸失利益の現価換算は損害評価の一環にすぎないし、本件では事故時から稼働開始までの中間利息をも控除しているのであるから、従来実務において同計算法が一般的に用いられていることをも考慮すれば、ライプニッツ式計算法がよりよいものであるかどうかはともかくとして、ホフマン式による算定方法自体を直ちに違法視することはできないというべきである。

(二) 秀仁の慰藉料

秀仁は、前記のとおり、なお六五年間の余命期間生存することができたはずであつたのに、本件事故により、わずか二年三か月の短い一生に終つたもので、その精神的苦痛に対する慰藉料は五〇万円を下らないと認められる。

なお、被告会社は、死者の慰藉料請求権の発生及び相続性は否定されるべきである旨主張するが、民法は、損害賠償請求権発生の時点について、その損害が財産上のものであるか、精神上のものであるかにより異なつた取扱をしていないし、慰藉料請求権発生の基礎となる被告法益自体は当該被害者の一身に専属するものであるけれども、これを侵害したことによつて生ずる慰藉料請求権そのものは、財産上の損害賠償請求権と同様単純な金銭債権であつて、相続の対象となりえないものと解すべき法的根拠はないから、慰藉料請求権は、被害者の死亡によつて当然に発生し、これを放棄、免除する等特別の事情の認められない限り、被害者の相続人がこれを相続することができると解すべきである。

<中略>

六、過失相殺の要否

<証拠>によれば、原告一茂は、本件事故現場の空地で使用人である被告三宅とともに薪割り作業に従事し、そのかたわら秀仁を付近で遊ばせその子守をしていたこと、秀仁の守は日頃原告晴美がするのを常としていたが、本件事故当日は原告一茂がその経営する鉄工所の操業を休み手がすいていた関係で、自己の意思により、原告晴美のもとから秀仁を連れてきて、右のようにその守をしていたものであること、被告三宅は、原告一茂から右作業用の道具を買つてくるよう命ぜられ、同所に駐車してあつた本件自動車に乗つて買物をしてくることにし、同車の所まで歩いて行く途中、その駐車場所から八メートル位離れた地点で玩具の自動車を持つてしやがんで遊んでいた秀仁に何気なく「なにしよんや」と声をかけたが、格別の反応もみせなかつたので、それ以上同人に注意を向けることなく本件自動車に乗つて出発しようとしたこと、ところが、秀仁は、被告三宅から声をかけられて間もなく、その後を追うようにして本件自動車に近寄つたため、本件事故に遭うに至つたこと、原告一茂は、被告三宅が秀仁に声をかけていたことは知つていたが、その後における秀仁の右行動は全くみておらず、その呻き声を聞いてはじめて事故に気付いたこと、以上の事実が認められ、これに反する証拠はない。

右認定の事実によれば、原告晴美が同一茂に秀仁の守を委ねたことは別段責められるべきことではないが、原告一茂は、父親として秀仁に対する監護上の注意義務を尽していなかつたといわなければならず、これは、本来なら被害者側の過失として損害賠償額を定めるにあたつて斟酌すべきことであると思われる(原告らは、被告三宅が声をかけた段階で、原告一茂の秀仁に対する監督状態が同被告に移つた旨主張するが、同被告は命ぜられて買物に出かけようとしていたものであるから、右主張は失当というほかない。)。しかしながら、被告会社に対する本訴請求は、原告一茂の保有者責任が基礎となるものであつて、その関係においては、同原告は加害者の立場に立つから、抽象的一般的には同原告が秀仁の父親としてこれを監護すべき義務を負つていたとはいうものの、具体的には、結局、同原告を過失相殺における被害者側の者とみるのは相当でないというべきである。

なお、前記認定事実によれば、客観的には、秀仁の行動に過失があるものと認められ、幼児であつても、かかる過失があれば過失相殺の対象となるとの見解もあるが、当裁判所は、これをとらず、過失相殺における過失は事理弁識能力を有するもののそれに限るべきであつて、既に認定した秀仁の年令からみて、同人にはその能力がなかつたものと考える。

七、消滅時効の成否

本件記録によれば、原告らは、被告会社の主張二項の(二)のとおり、当初は原告ら固有の慰藉料を訴求していたのを、秀仁自身の損害の支払いを求める旨、被告会社に対する請求の原因を変更したことが認められ、その変更のときには、自賠法一九条所定の二年の時効期間を経過していたことが明らかである。

しかしながら、本件記録と審理の経過に徴すれば、原告らは、その固有の慰藉料或いは秀仁自身の損害を問うことなく、要するに、本件事故による損害全般につき、保険金額の限度内で被告会社に対し保険金を請求する趣旨で本訴を提起したものと認められるから、かかる場合は、事故による損害賠償請求権全体について時効中断の効力を生ずるものと解するのが相当である。すなわち、この種請求にはその当否について多くの問題があつて、原告らも苦慮し、結局、最近の判例の傾向等を考慮して比較的問題の少ない秀仁の損害を請求の原因とすることに落着したもので、すべての損害に基づいて訴求するものであることを暗に表示していたとみられるから、秀仁の損害についても、本訴提起時に裁判上の請求をしたと同視するのが相当であり、そう解しても、時効制度の本来の趣旨に反せず、かえつて被害者の公平な保護を図る目的に合致するというべきである。

八、結論

そうすると、被告会社は原告晴美に対し同原告の前記相続額の範囲内である一五〇万円及びこれに対する本件訴状が被告会社に送達された日の翌日であることが記録上明らかな昭和四四年二月二日から完済に至るまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金を支払う義務があるから、同原告の請求は正当であるが、原告一茂のそれはすべて失当というべきである。<以下略> (村上明雄)

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